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戦前、旧満洲(現在の中国東北地方)中心に開拓団として、多くの日本人が中国大陸に移住しました。それは強力な国策のもとでおこなわれました。しかし、太平洋戦争が勃発し、日本は敗戦の道を歩みます。その結果、多くの民間日本人は尊い命が奪われました。命が助かった子どもたちは一部中国に取り残され、親切な中国人により育てられました。それが、私たち「中国残留孤児」です。大人になり、結婚し、子どももできました。この子たちが「残留孤児二世、三世」です。私たちは中国で育ててくれた養父母に感謝しつつも、望郷の念に駆られ、日本へ帰りたいという想いは強く、それがようやく日中国交回復とともに実現しはじめました。現在は大部分の「孤児」が日本に帰国しています。しかし、あまりに帰国が遅れて、高齢になってしまったために、日本語習得は難しく、就職も困難で、就職しても期間も短く、生活はとても人並みといえるものではありませんした。

2001年、私たちは中国帰国者の人権と老後の生活の保障を求めて、まず関東地区から
「国家賠償訴訟原告団」を結成し、集団訴訟を起こしました。その後、全国15箇所で次々と原告団が結成され、「残留孤児」全体の約9割、2千名を超える人が原告となりました。弁護団の助力のもと、国会議員の協力や社会各方面の支援を受けながら、5年間の闘いを経て、ようやく、2008年4月より新しい支援策が実施される運びとなりました。

しかし、新しい支援策にはなおも不十分な点があり、改善しなければならない問題は多く残っています。これらの問題に引きつづき取り組み、安心して老後生活を送れるために、裁判を取り組むなかで培った団結や助け合う精神を引き継ぎながら、さらに活動していく必要があるとの認識が明確となってきました。また、これまでに私たちを支えてきた日中両国のために、少しでも恩返ししたいという思いもますます強くなってきました。これらの目的を実現するために、法人資格を有する組織が私たち帰国者にとって必要不可欠となります。このような気運の下で当NPO法人が誕生しました。

さくら共同法律事務所の河合弘之弁護士の指導を受け、弁護団の支持のもとで2008年3月、NPO準備委員会が立ち上がりました。会名は準備委員会で議論検討し、NPO法人「中国帰国者・日中友好の会」と決定しました。同年5月に総会を開き、5月下旬に申請書類を東京都庁の関連部門に提出しました。河合弁護士が当会の監事を、小野寺、安原、米倉弁護士は理事を、弁護団の鈴木団長を始め6名の弁護士に顧問となっていただきました。

NPOの設立は各界の支持と歓迎を受けました。「残留孤児問題」与党プロジェクトチームの座長で衆議院議員の野田毅先生、弁護団団長の鈴木先生および副団長の小野寺先生、ならびに多くの社会団体や個人からも賛同の意をいただきました。審査を経て、9月下旬に東京都庁より認定書が発行され、その後、設立登録など一連の手続きを終え、NPO法人「中国帰国者・日中友好の会」は正式に誕生しました。事務所は当初東京都港区新橋の国際善隣会館に開設しましたが、2009年7月に、東京都台東区台東四丁目23番11 川口工商ビル1階に移転しました。